ETV特集「藤沢秀行という生き方」
2009年12月13日 TV コメント (2)
ETV特集「藤沢秀行という生き方」を観た。
オイラ、囲碁の事など全く解らないが、この無頼派と言われる彼【藤沢秀行】という人に酷く魅かれた。
飲む・打つ・買うのハチャメチャな私生活と裏腹に、盤に向かえば真剣勝負。
家族としては、酷く迷惑な人だったようだが、碁打ちの人には神様みたいな人だったらしい。
自分の人生を存分に生きた人。
羨ましいっちゃ羨ましいんだけど、器が違うね~。
誰もが出来る訳じゃない。
人の器の大きさは、授かったサイズなのだと思う。
「努力が足らん」と言われても、基準が解らない。
大きい器の人は、その器に注ぎ込めば重くなる。
小さい器を持って生れた人は、目いっぱい努力して注ぎ込んでも軽いのかも知れない。
努力しても努力しても、人一倍努力しても報われ無い人が居る。
大きい器の人から見ると、「努力が足らん」となる。
こういった凄い人を見ると、羨望と共に絶望感を感じる。
でも天才も最後まで迷っていた様だ。
晩年の彼の書「迷走」。
オイラ、囲碁の事など全く解らないが、この無頼派と言われる彼【藤沢秀行】という人に酷く魅かれた。
飲む・打つ・買うのハチャメチャな私生活と裏腹に、盤に向かえば真剣勝負。
家族としては、酷く迷惑な人だったようだが、碁打ちの人には神様みたいな人だったらしい。
自分の人生を存分に生きた人。
羨ましいっちゃ羨ましいんだけど、器が違うね~。
誰もが出来る訳じゃない。
人の器の大きさは、授かったサイズなのだと思う。
「努力が足らん」と言われても、基準が解らない。
大きい器の人は、その器に注ぎ込めば重くなる。
小さい器を持って生れた人は、目いっぱい努力して注ぎ込んでも軽いのかも知れない。
努力しても努力しても、人一倍努力しても報われ無い人が居る。
大きい器の人から見ると、「努力が足らん」となる。
こういった凄い人を見ると、羨望と共に絶望感を感じる。
でも天才も最後まで迷っていた様だ。
晩年の彼の書「迷走」。
http://www.youtube.com/watch?v=59GleMhJ98U&feature=related
鉄矢繋がりで、こんな物を見付けました。
リアルタイムで観ていた者には、印象深いシーンですね。
衝撃的で、涙をボロボロ流して観ていた覚えが有ります。
鉄矢繋がりで、こんな物を見付けました。
リアルタイムで観ていた者には、印象深いシーンですね。
衝撃的で、涙をボロボロ流して観ていた覚えが有ります。
佐伯祐三
彼の作品に初めて触れたのは高校生の時。
当時、一応美術部員だったオイラは、陶芸に明け暮れていて、絵画の部員とは一切かかわりを持たない浮いた存在だった。
それでも顧問の先生は陶芸の職人から美術教師に転身したかわった経歴を持っていたもんだから、変わり者のオイラには結構親しく接してくれた。
彼からは、一切陶芸についての指導を受けた覚えは無いが、それ以外の絵画や彫刻については、美術雑誌などをひも解きながら解説してもらった記憶が有る。
そんな話の中で、佐伯祐三と出会った。
多くの当時、洋画家を志す画家と同様に、彼も花の都パリに情熱のはけ口を見出した。
近代化が進む華やかな町並みから外れ、彼の画家としての眼は古い生活感の漂う下町に向かう。
オイラは、その荒々しいタッチの、どちらかと言うと暗い感じの画風に何とも言えぬ魅力を感じた。
個人の感性は人様々で、言葉で言い表すと陳腐な表現に成ってしまう。
ただ心の感性のヒダが彼の作品に引っかかってしまった。
その答えは、どこにあるのか?彼の作品に引かれたのどうしてだったのか、今日のNHK教育の【新日曜美術館】で見つけた様な気がした。
情熱の赴くままに駆け抜けた30年の短い生涯。
熱い魂の凝縮の様な彼の作品に、進むべき道を見出せなかった当時のオイラは憧れたのだと思った。
彼の作品をまとめて観る機会が来ることを望む。
今のオイラは、その作品群から何を感じるのだろう。
彼の作品に初めて触れたのは高校生の時。
当時、一応美術部員だったオイラは、陶芸に明け暮れていて、絵画の部員とは一切かかわりを持たない浮いた存在だった。
それでも顧問の先生は陶芸の職人から美術教師に転身したかわった経歴を持っていたもんだから、変わり者のオイラには結構親しく接してくれた。
彼からは、一切陶芸についての指導を受けた覚えは無いが、それ以外の絵画や彫刻については、美術雑誌などをひも解きながら解説してもらった記憶が有る。
そんな話の中で、佐伯祐三と出会った。
多くの当時、洋画家を志す画家と同様に、彼も花の都パリに情熱のはけ口を見出した。
近代化が進む華やかな町並みから外れ、彼の画家としての眼は古い生活感の漂う下町に向かう。
オイラは、その荒々しいタッチの、どちらかと言うと暗い感じの画風に何とも言えぬ魅力を感じた。
個人の感性は人様々で、言葉で言い表すと陳腐な表現に成ってしまう。
ただ心の感性のヒダが彼の作品に引っかかってしまった。
その答えは、どこにあるのか?彼の作品に引かれたのどうしてだったのか、今日のNHK教育の【新日曜美術館】で見つけた様な気がした。
情熱の赴くままに駆け抜けた30年の短い生涯。
熱い魂の凝縮の様な彼の作品に、進むべき道を見出せなかった当時のオイラは憧れたのだと思った。
彼の作品をまとめて観る機会が来ることを望む。
今のオイラは、その作品群から何を感じるのだろう。
昨夜、NHKの【白夜の大岩壁に挑む】を観た。
日本最強のクライマー 山野井泰史・妙子夫妻が北極圏・グリーンランドの未踏の岸壁に挑む記録。
今現在オイラが一番尊敬できる人 山野井泰史 。
もちろん、面識が有る訳では無いが、彼の壮絶な山での記録は山岳雑誌、著書などを通して知っている。
彼のスタイル、ストイックさは、なかなか常人には理解しがたいかも知れないが、彼の存在は、オイラの今のスタイルに大きな影響を与えている。
オイラは、彼のようなハードな行動をしている訳では無いが、彼が山にかける情熱、集中力は、その記録から大いにオイラを揺り動かし、そして何かに駆り立てる。
彼の素晴らしさは、その壮絶な登攀からちゃんと生きて還って来る事。
長谷川恒夫 山田昇らも優れたクライマーに違いないが、彼らは還ってこなかった。
しかし、彼と妻の妙子さんは、あの壮絶なギャチュカンの登攀から帰って来た。
二人合わせて手足の指28本も失いながら・・・。
そして伝説と成った。
普通なら、これほどのダメージを負ってしまえば、高度な技術と体力を必要とする、ビッグウォールクライミングに復帰するのは、精神的、技術的にも不可能だと思われるが、彼らは、その残された指で、情熱を奮い立たせ再び岩に戻ってきた。
ヘリコプターから、登るべき岩を物色する姿は、彼の孤高やストイックといったイメージからかけ離れた、好奇心に充ち溢れた少年のようで、そのギャップに驚かされた。
しかし、その少年の見返りを求めない純粋さが、彼の超人的なパフォーマンスを支えているのだと知った。
そんな彼だが、先日自宅付近をジョギング中にクマと遭遇し、顔などを噛まれ重傷を負ったとニュースで聞いた。
まさか、幾多の死闘から生きて帰って来た彼が、こんな事で・・・と、唖然としたが、彼の事だから、また彼の次の舞台へと出かけて行くのだろう。
そして、還って来るだろう。
日本最強のクライマー 山野井泰史・妙子夫妻が北極圏・グリーンランドの未踏の岸壁に挑む記録。
今現在オイラが一番尊敬できる人 山野井泰史 。
もちろん、面識が有る訳では無いが、彼の壮絶な山での記録は山岳雑誌、著書などを通して知っている。
彼のスタイル、ストイックさは、なかなか常人には理解しがたいかも知れないが、彼の存在は、オイラの今のスタイルに大きな影響を与えている。
オイラは、彼のようなハードな行動をしている訳では無いが、彼が山にかける情熱、集中力は、その記録から大いにオイラを揺り動かし、そして何かに駆り立てる。
彼の素晴らしさは、その壮絶な登攀からちゃんと生きて還って来る事。
長谷川恒夫 山田昇らも優れたクライマーに違いないが、彼らは還ってこなかった。
しかし、彼と妻の妙子さんは、あの壮絶なギャチュカンの登攀から帰って来た。
二人合わせて手足の指28本も失いながら・・・。
そして伝説と成った。
普通なら、これほどのダメージを負ってしまえば、高度な技術と体力を必要とする、ビッグウォールクライミングに復帰するのは、精神的、技術的にも不可能だと思われるが、彼らは、その残された指で、情熱を奮い立たせ再び岩に戻ってきた。
ヘリコプターから、登るべき岩を物色する姿は、彼の孤高やストイックといったイメージからかけ離れた、好奇心に充ち溢れた少年のようで、そのギャップに驚かされた。
しかし、その少年の見返りを求めない純粋さが、彼の超人的なパフォーマンスを支えているのだと知った。
そんな彼だが、先日自宅付近をジョギング中にクマと遭遇し、顔などを噛まれ重傷を負ったとニュースで聞いた。
まさか、幾多の死闘から生きて帰って来た彼が、こんな事で・・・と、唖然としたが、彼の事だから、また彼の次の舞台へと出かけて行くのだろう。
そして、還って来るだろう。
昨夜の教育テレビのETV特集 「手の言葉で生きる」を観た。
音の聞こえない、静寂の中で暮らす子供たちと、まだ、はっきりとした指導法が確立されていない、手話による教育に挑む若い教師の挑戦を追ったドキュメンタリー。
子ども達は、細やかな感情まで、彼らの言語である 手話 で話し合って、ごく普通にコミュニケーションをしている。どこにでも居る子供たちの遊びが有り、言い争いが有り、たわいの無いおしゃべりが有る。そこには、障害などいう感覚は感じ取れない。ただ違うのは、【手の言葉】で会話が行われている事。
今まで 、ほとんどの聾学校では、手話を用いず、正しい日本語の習得のために、口話法による教育が行われてきた。
この紹介された学校では、 新たな試みとして、聾者の教師による、手話での授業が、手探り状態で行われている。
子ども達も教師も、彼らの共通言語で行われる授業は、細やかな感情のやり取りが出来 活き活きしている。このやり方は子ども達の豊かな感性人間性を引き出している様に思える。保護者の方々も、聾者の教師に我が子の将来像を重ね合わせ、この教育法に期待している様に感じた。
だが、現実には、幼い子供たちは、手の言葉と日本語の間で悩んでしまう。手の言葉には、て に を は が無いらしく、苦労して覚えて行くことに成る。聴力が普通であれば、普段の会話の中で自然に覚えて行けることなのだが・・・。
口話法での教育の場合、子どもたちは、なかなか自分の気持ちを伝えられずにいた事だろう。感性が育つこの時期に、思いっきり感情をぶつけ合いながら共に成長していく、人間形成の上では大切な事。
しかし、このままのやり方では、社会に出たら健常者とのコミュニケーション手段が限られてしまわないか心配になった。彼らだけのコミュニティーで生きていく訳にはいかないのだから。
登場する児童の中に、幼い頃【人口内耳】を埋め込む手術を施した少女が登場する。当時母親は、わずかな音でも聞こえる事、会話をできる事をの望んだ。だが実際には、うまく機能しなかったらしい。(かすかには聞こえたらしく、少しなら会話ができたらしいが・・・)そんな時、手話で楽しそうに 会話 する子供たちに出会う。やがて、引き込まれるように手話を覚え、集音装置を外し、彼らの中に入って行く。
そして数年が過ぎ、まだ人口内耳が機能しているか検査に訪れた病院で、主治医に、少女は、将来人口内耳の除去の手術の依頼をする。
「どうして外したいの」、「いらないから」幼い少女は、ただ漠然と「いらない」と言う。今の、コミュニティーの中では、必要無いのだ。
そこで、医師は母親に、「外すことは可能です。ただ、外してくれと言われても、私が、外すとは限りません」と言う。この言葉が、重く心に残った。
母親は、現実と理想の間で、葛藤する。
いつかは、少女も大人になり、コミュニティーから出て行かなければ、外の世界に出て行かねばならない。
多くの患者を診てきた医師としては、そのコミュニケーションの手段としての、会話 という可能性を、残しておいてやりたいのだろう。
だが、幼い子供には、まだ現実は見えない・・・。
幼く、無邪気な子供たちの将来に、どんな現実が待っているのだろう。是非、継続的な取材を続けていただき、続編という形でみて行きたいと思った。
いろいろ考えさせられる番組だった。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html
音の聞こえない、静寂の中で暮らす子供たちと、まだ、はっきりとした指導法が確立されていない、手話による教育に挑む若い教師の挑戦を追ったドキュメンタリー。
子ども達は、細やかな感情まで、彼らの言語である 手話 で話し合って、ごく普通にコミュニケーションをしている。どこにでも居る子供たちの遊びが有り、言い争いが有り、たわいの無いおしゃべりが有る。そこには、障害などいう感覚は感じ取れない。ただ違うのは、【手の言葉】で会話が行われている事。
今まで 、ほとんどの聾学校では、手話を用いず、正しい日本語の習得のために、口話法による教育が行われてきた。
この紹介された学校では、 新たな試みとして、聾者の教師による、手話での授業が、手探り状態で行われている。
子ども達も教師も、彼らの共通言語で行われる授業は、細やかな感情のやり取りが出来 活き活きしている。このやり方は子ども達の豊かな感性人間性を引き出している様に思える。保護者の方々も、聾者の教師に我が子の将来像を重ね合わせ、この教育法に期待している様に感じた。
だが、現実には、幼い子供たちは、手の言葉と日本語の間で悩んでしまう。手の言葉には、て に を は が無いらしく、苦労して覚えて行くことに成る。聴力が普通であれば、普段の会話の中で自然に覚えて行けることなのだが・・・。
口話法での教育の場合、子どもたちは、なかなか自分の気持ちを伝えられずにいた事だろう。感性が育つこの時期に、思いっきり感情をぶつけ合いながら共に成長していく、人間形成の上では大切な事。
しかし、このままのやり方では、社会に出たら健常者とのコミュニケーション手段が限られてしまわないか心配になった。彼らだけのコミュニティーで生きていく訳にはいかないのだから。
登場する児童の中に、幼い頃【人口内耳】を埋め込む手術を施した少女が登場する。当時母親は、わずかな音でも聞こえる事、会話をできる事をの望んだ。だが実際には、うまく機能しなかったらしい。(かすかには聞こえたらしく、少しなら会話ができたらしいが・・・)そんな時、手話で楽しそうに 会話 する子供たちに出会う。やがて、引き込まれるように手話を覚え、集音装置を外し、彼らの中に入って行く。
そして数年が過ぎ、まだ人口内耳が機能しているか検査に訪れた病院で、主治医に、少女は、将来人口内耳の除去の手術の依頼をする。
「どうして外したいの」、「いらないから」幼い少女は、ただ漠然と「いらない」と言う。今の、コミュニティーの中では、必要無いのだ。
そこで、医師は母親に、「外すことは可能です。ただ、外してくれと言われても、私が、外すとは限りません」と言う。この言葉が、重く心に残った。
母親は、現実と理想の間で、葛藤する。
いつかは、少女も大人になり、コミュニティーから出て行かなければ、外の世界に出て行かねばならない。
多くの患者を診てきた医師としては、そのコミュニケーションの手段としての、会話 という可能性を、残しておいてやりたいのだろう。
だが、幼い子供には、まだ現実は見えない・・・。
幼く、無邪気な子供たちの将来に、どんな現実が待っているのだろう。是非、継続的な取材を続けていただき、続編という形でみて行きたいと思った。
いろいろ考えさせられる番組だった。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html